とてもとても、夜空が綺麗な日のことです。
 とてもとても、風が穏やかな日のことです。
 僕の部屋に、死神がやってきました。
 そしてすぐに去りました。
 ほんの一時だったけれど。
 ほんのすこしのおしゃべりだけど。

 また、貴方とお話がしたいです。


 かなしいものがたり




 それは僕が大学の卒業論文の内容を考えていたときのことです。
 暗夜の空にはぽっかりと、穴が開いたように満月がありました。
 部屋の中はしぃーんとして、僕のペンが走る以外、何も音はありません。
 ふと、後ろを振り向くと、へんてこな怪物がいました。
 イスから転げてしまいました。
 「またお前、俺をみてコケるのかよ…」
 その怪物は日本語をしゃべりました。
 僕の欲しいものが詰まった広い部屋に、怪物は何時の間にか立っています。
 恐ろしい顔付きなのに、僕は最初の反応以外、不思議と怖いという思いはありません。まる
で、気配も無く堂々と、主人の傍に寄ってきたペット、という感覚です。こんなに恐ろしい顔付き
だというのに。
 「こんばんわ。」
 怪物は夜のご挨拶をしました。そして部屋を見回すと、
 「……ちょっと部屋の雰囲気、変わった?」
 僕は頷き、
 「模様替えしたから……」
 素直に答えて、はたと気がつきます。こんなにおかしな展開なのに、僕は痛めた腰を摩りな
がらイスを戻して座りなおしました。そうだ、きっとこれは夢なんだ。僕は恐ろしくも可笑しい、変
な夢を見ているんだ。でも腰がじんじんとまだ痛みます。
 「どなたですか?」
 「え?言わなきゃダメ?」
 「是非。」
 夢の中の怪物は、自分を名乗り出ることを嫌がっているようです。
 「お前の友達だった。」
 「僕に怪物の友達はいないよ。」
 「怪物じゃない、死神だ。」
 死神。
 その単語に、僕の想像は膨らみます。骸骨が黒いマントを羽織り、身長より高い鎌を振り回
す。しかし目の前の怪物は、骸骨どころか鎌すら持っていません。しかし、僕は納得してあげる
ことにしました。
 「君は『だった』と言ったね。じゃあ、もう友達じゃないの?」
 「おまえ自身分かっていると思うが、お前は俺を覚えてないだろう?」
 「うん。」
 「だから、友達だった。」
 「どうして僕に、記憶が無いの?」
 「それは俺の口からはちょっと……」
 もごもごと。口の中に食べ物を入れたように、篭った喋り方の死神。
 「……何しにきたの?」
 「野暮用があって。」
 「野暮用?」
 「そう、野暮用。」
 そして死神は言いました。
 「お前はもうすぐ、死ぬぞ?」


 「俺は昔、お前と約束をした。」

 「あるものを使った条件として、お前が死ぬときは俺が殺すと。」

 「だから、こうして来た。」

 「………なるほど。」
 僕は顎を下ろし、俯いて納得します。死神は首をかくんと捻り、
 「……怖いとか、思わないのか?」
 「死ぬのは怖いよ?」
 「いや、俺は?」
 「なんで?」
 「お前を殺すんだぞ?」
 「だって、君は僕が死ぬときになったら殺すわけで、君のせいで僕の死期が早まるわけじゃな
いじゃないか。」
 「そうだけど。」
 「死神は、死期の近い人に見えるの?」
 死神……この場合、彼と言ったほうがいいでしょうか。
 「いや、あるものを触らせる。」
 「あるもの?」
 「それは……俺の口からはちょっと……」
 「はあ。」
 「死ぬといっても、今すぐじゃないぞ。」
 「はあ。」
 「だから、時が来る前にお前と話がしたかった。」
 ここまでの話を考えてみると、彼はかつて僕の友人で、なにかあるものを貸してもらったのか
使ったのか、どちらかのことをして、最後の最後、命の灯火をあげるという契約をしたらしい。
 不思議と、会話をするのに壁はありませんでした。まるで旧友が訪ねてきたような感覚です。
僕らはそれから、有触れているけれど穏やかな話を続けました。
 「……背、伸びた?」
 「うん。ちょっと。」
 「大学生活、どうだった?」
 「つまらない。」
 僕は背もたれを前に、彼を見ます。
 「勉強が?」
 「うん。」
 「嫌いだったっけ?」
 「違う。簡単すぎて。」
 「そっか。」
 沈黙。
 「庭に、新しい木を植えてたな。」
 「うん。」
 「猫も飼ってるな。何時の間にか。」
 「うん。」
 「……そこの林檎、もらっていい?」
 「うん。」
 夜食用の林檎を差し出します。綺麗に切られたウサギの林檎を、長い長い爪でひょいっとつ
まみ、大きな口へぱくり。味わった後、
 「やっぱり人間界の林檎は美味い。」
 「どこから来たの?」
 「死神界。」
 「そのまんまだね。」
 「おう。」
 「林檎、好きなの?」
 「すごく。」
 「へえ。」
 「うん。」
 きっとこれは夢なんだ。そう、僕はこの夢が覚めれたら暖かい布団から這い出て、濃霧のよ
うな意識で見ていた夢を思い出そうとして、そしてやがて忘れるのでしょう。
 彼はお皿の上を綺麗に片付けると、しばらく口を閉ざしました。
 こう、言ってきます。
 「さっきも言ったとおり、お前の寿命は近い。」
 「うん。」
 「俺はやるべきことをやる。だがその前に、言っておきたいことがある。」
 「うん。」
 「ずっと思ってた。」
 「うん。」
 「好きだ。」
 「うん?」
 僕は返答に困ってしまいます。何故、人間離れしたこの怪物が校庭裏に女子生徒を呼び出
して告白する少年の台詞を吐くのでしょう?もじもじと体を揺らし、終始視線を逸らし続ける死
神を見つめ、僕は口を開きました。
 「失礼だけど、」
 「おう。」
 「君は雌?」
 「俺が女だったら多分色々な面で苦労はしていない。」
 「男の方?」
 「まあ。」
 「失礼だけど、」
 「なんでもどうぞ。」
 「僕は女性じゃないよ?」
 「知ってるよ。」
 「そっか。」
 「そうだよ。」
 「そっか…。」
 「そうだよ…。」
 会話が続きません。当然です。
 「……あの……」
 「いや、答えは聞きたくない。」
 逃げ腰の神様は、耳を塞ぎます。
 「俺はお前が幸せならそれでいいんだ。ただ、一度でいいから言いたかったんだ。存分にフッ
てくれ。そのつもりで来たし。」
 「つまり、自分の言い分は相手に押し付けて、相手の返答は口を塞いででも自分保護のため
に聞きたくない、と?」
 「そう言われるとキツイなぁ…。」
 「だって本当のことだし。」
 「だってほら、恋愛って基本的に自分の我侭を押し付けるようなもんだし。」
 「死神が人間の恋愛語ってどうするの?」
 「あ、それ以前にも言われた。」
 「そっか。で?」
 「なに?」
 「話しておきたい事って、それだけ?」
 「これだけ。」
 「そっか…」
 何度か頷いて、そして疑問を問いかけます。
 「……どうして、今までに会いに来てくれなかったの?」
 「勇気が…なくって……。」
 「僕が嫌いになったの?」
 「…………………。」
 黙ってしまいました。これでは僕も、言葉を続けられません。
 「一つ、分かってほしいのは。」
 ようやく彼が言葉を紡ぎます。
 「俺は、お前といて楽しかったし、ずっと一緒にいられればと思ってた。でもそれは無理だ。俺
は死神だし、お前は人間だし。いつか死が俺達を別つだろう。それでも俺は、納得できる。だ
が、俺のせいでその死が早まるのは我慢できなかった。それに気がついて、俺はお前の下を
去った。所持権破棄を騙してまで強要したのはそのせいだ。悪かったと思っているが、間違っ
ていると思ってはいない。」
 彼は、僕のわからない単語を使いました。
 「Lに言っておいてくれ。お前なんか大嫌いだったと。お前に全てを任すのはとても悔しいが、
もう仕方ないだろう。」
 「………………?」
 「それから月、もう二度と、危ない遊びはやめてくれ。」
 彼の言っている意味が、よく分かりません。死神は、ちらりと壁掛け時計を見ると、
 「時間だ。」
 そう言って、ズボンのベルトにくくりつけたノートを取り出します。黒いノートです。開いて、なに
かを書き込みます。
 「それは?」
 「俺の口からじゃ…ちょっと……」
 じゃあ、誰の口からならいいのでしょう?
 ようやく書き終えた彼は、じっと深淵のような瞳で僕を見つめ、
 「今日お前と会ったのは、本当にたまたまだ。お前の寿命があと僅かなのは知っていたか
ら、ずっとお前を見ていた。だが、なんとかなりそうだったから、俺はこの方法を選んだ。別の
方法もあったかもしれないが、時間が無かった。このノートはLに渡してくれ。」
 なんということでしょう。
 彼の体が一瞬で、白い灰の塊のようになりました。体から、さらっと砂が零れます。
 「サヨナラだ。」
 砕けました。
 さらさらと、さらさらと。
 白い灰が、さらさらと。
 そして僕の部屋に、白い砂の山が出来ました。掃除が大変そうです。その砂に埋もれ、黒い
ノートの頭がひょっこり顔を出しています。
 死神はいません。
 どこかへ、消えてしまいました。




 翌朝、僕の家の高い木に、泥棒が数人、心臓麻痺で死んでいました。泥棒の持ち物にナイフ
があったので、もしかしたら僕は、殺されていたかもしれません。危なかった。
 死神の言うとおり、僕は友人にそのノートを渡しました。そして、その話をしました。
 「………………。」
 その友人は指の爪を噛みながら、なにやら考え込みます。僕の頭が変になったことを憐れん
でいるのでしょうか?でも、たしかにそこには砂の塊が存在していて、掃除をするのが大変だっ
たんです。
 その砂の塊は、ゴミ袋の中です。今は回収車の手に渡り、遠くへ遠くへ運ばれていることでし
ょう。
 「月君は、どう思いましたか?」
 友人がぽつりと聞いてきます。なんのことでしょう?
 「その死神を、どう思いましたか?」
 僕は、素直な気持ちを彼に伝えました。
 「とても、暖かい感じがしたよ。」
 あの黒い怪物と話していて、少し早い春の風と戯れたような、そんな気持ちになりました。
 記憶は無くとも、彼の言った『友人』という単語に、納得のいく印象を受けました。
 何時の間にか、僕の顔は綻んでいました。
 それを友人は、じっと見つめます。
 死神と同じ黒い深淵で、じっと僕を見つめます。




 そして。
 僕の目の前に、黒いノートがあります。
 死神が残したものとは違い、表紙に『DEATH NOTE』と書かれていました。
 それをテーブルに置いた友人は、体育座りをしながら、
 「死神のことを知りたいのならば、どうぞ『触って』ください。」
 なんでしょうか…。彼はなんだか、怒ったような悲しんでいるような、そんな微妙な表情をして
います。
 「貴方が…悪いんですよ…いつまでも未練がましくあの死神に……」
 彼が小さく呟いた台詞は、僕には届きません。
 僕の視線は、その黒いノートに惹きつけられています。
 これは、なんでしょうか?
 これになにか、書いてあるのでしょうか?
 もしかしたら、あの死神についてのヒントなんでしょうか?
 僕は、あの死神に会いたい?
 …………………。
 会いたい。
 会ってもう一度、話をしてみたい。
 告白の答えはまだ出てないけれど…。
 貴方と、もう一度……いいえ、何度でも。
 話をしたいんです。
 もし、会えたとしたら、なにを話しましょうか?
 また、部屋の模様を替えたことでも話しましょうか?ウチの猫に新しい首輪を買ってあげたこ
とでもいいでしょうか?
 それともあんなこと、それともこんなこと。
 僕は、もう一度友人を見て。
 そして、そのノートに。
 触れました。





すれ違った想いは
永遠に
届かぬまま


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