この広い街で、人一人を探そうと思うことはある意味無謀だった。相手に土地勘はなく、何処
へ行こうとするのか皆目見当がつかない。とりあえず、駅に行ってみた。路地裏も覗いてみた。
友達全員に話も聞いた。
 だが、手がかりは何一つない。俺の中に、焦りばかりが募る。
 あたりまえだ。月が姿をけしてから、一時間は経過していた。
 一度、月と行ってみたコンビニに足を運ぶ。雑誌コーナーを覗いてみたが、いる気配はない。
まあ、殺されそうになって逃げた後の行動が、雑誌の立ち読みとは到底思いつかないが。
 だめだ、俺……探す当てを全てなくした俺は、自己嫌悪に陥る。メロに胸を張って探しにいっ
てくるといいながら、この様……どう顔向けしたらいい?
 自宅方面に行く気にもなれず、俺はふらふらとコンビニをでて歩き始める。裏路地に入った
……その時だ。数人の男達が、細い道を塞いだ。いきなり作られた壁に、俺は背後を振り返
る。同じように、男達が立っていた。
 囲まれた。此処でようやく、俺は犯罪者二人を匿っていたことを思い出す。まさか、月は……
状況を照らし合わせて導き出した予測に、俺は身震いした。
 「……なんだよ、俺になにか用か?」
 男達は、メロと夜神月の居場所について問いただしてきた。月も……ということは、捕まって
はいないのだ。ほっとする反面、今の現状から抜け出せる術はもしかしたら皆無なのではと頭
の隅で思う。
 「さあ……知らないな。そこ、退けよ。」
 凄みながら、男達の間を抜けようとすると、一人がなにかを差し出してきた。拳銃を突き出さ
れたら絶対助けを叫ぼうと心に決めていた俺は、口を半開きにしながらそれを見る。携帯電話
だ。通話中となっている。
 出ろ、ということなのだろう。男達を睨みながら、それを受け取った。まさか、携帯電話がいき
なり爆発しないよなとどきどきして、耳に当てる。
 「こんにちは、マット」
 相手は、ニアと名乗った。
 そして
 話し始める
 「知りたくはないですか?」

 信じられない、現実を

 「貴方が匿っている『アレ』が、どういったものなのかを。」

 友人の


 本当の姿を


******


 メロはソファの上で膝を抱え、考えていた。なんで月は、泣いて出て行ってしまったんだろう。
やっぱり、人間は殺されそうになると怖がるのだろうか。
 でも、と。メロは頭を捻る。
 月は、とても苦しそうだった。様々な感情に押しつぶされ、心が軋み、悲鳴を上げていた。だ
から、本人も窓から飛び降りたんじゃないか。それを、今になって怖がるなんて。
 長い時間一人でいるせいか、色々なことを考えた。長時間眠ったお陰で、頭の中がすっきり
する。人間の感覚に戻った時の……感情と呼ばれる様々なざわめきが消え去り……そう、ま
るで

 記憶が、整頓されたような

 月は帰ってくるだろうか。帰ってこなかったら……まあ、いい。死神界に一旦戻って、探せば
良いだけのことだ。守るって決めたんだ。様々な障害から、痛みから、恐怖から。考え抜いた
末に思いついたこと。そこから抜け出す方法はただ一つ。

 死

 自分はカミサマだけど、死神だから、死しか与えられない。でも大丈夫。怖いのならば、その
感情を取り払って安らかに瞼を下ろさせてあげる。荷物の中からノートを引っ張り出し、それを
眺めた。
 デスノート。人の死を操る物。これさえあれば、月は微笑みながら眠りにつけるだろう。
 それが分かっているのに、何故かメロには月の名前が書けなかった。書こうとすると、未だ残
る胸のうちの何かが指先を引きとめる。記憶と呼ばれる忌まわしい触手が、月に眠りを与える
ことを妨げる。鬱陶しい。ニアの時もそうだ。己の中の何かが悲鳴をあげ、やめてくれと懇願す
る。見っとも無い。やめてくれ。顔を顰めて、ノートを放り出す。
 視線をテーブルに向けたことによって、丸められた紙の存在に気がついた。幾つも、床にす
らちらばっているそれ。綺麗好きな月には珍しい、乱雑とした片付け方。その一つを手に取り、
広げてみる。皺くちゃになった紙を指先でなぞり、字体を目で追う。
 まず、自分の名前。次に、アイノコトバ。
 その先からは、なにも書かれていない。
 もう一つ広げた。もう一つ、もう一つ……どれもこれも、書かれていなかったり、破かれていた
りと、先が続いているものはなにもない。
 そのかわりに
 何度も流した涙の雫が紙に染みを作り、伝えたい事を物語っていた。



*****



 日の当たらない、悪臭が漂う寂しい場所。潰れたビルの地下階段の下で、月は蹲り泣いてい
た。いつもだったら、メロが抱きしめて慰めてくれる。でも、今はいない。当たり前だ。自分は、
彼から逃げてきた。
 もういっその事、殺されたほうがいいのだろうか。その覚悟も、メロの微笑を思い出すたびに
粉々に砕かれる。
 閉じられた扉にもたれかかり、押し殺す泣き声が地下階段に響き渡る。もし、メロが来たらど
うしよう。また、首を絞められたらどうしよう。メロが、メロでなくなっていたらどうしよう。どうしよ
う、どうしよう、どうしよう。
 「月」
 少年の声に、びくっと肩が震えた。その後は、小刻みに震え、顔を上げられない。
 「月……俺だ、わかるか?」
 メロとは違う声に、恐る恐る顔を上げると、マットが立っていた。走り回ったのか息が上がり、
よろけながら階段を下りる。なにも言えないでいる月の腕を無理やり取り、立たせた。その強
制的な引っ張り方に、月は不信感を抱く。メロに頼まれ探しに来たのならば、妙な行動だ。
 「マット…あの、僕……」
 「ちょっと、来い。」
 戸惑う月の腕を強く引き、マットは階段を駆け上がった。
 「な…なに?メロの所に、帰るの?」
 「……………」
 「ね…な、なにか言って!ねえ!」
 階段を上りきると、大して強くはない光が眩しく感じられる。月が何度か瞬きをして、
 「え?」
 月を待ち受けていたのは、数人の捜査官。
 「……………え?」
 呆然としながら、月はマットの後姿を見た。
 そして


******


 メロはすべての手紙を広げ終えた。それはどれも未完成の恋文であり、別れの手紙である。
 月は、自分の下から去るつもりだった。破けた文を直し、ペンでぐしゃぐしゃと黒く潰した文字
を読み終えると、メロは唇を噛んだ。マットの嘘つき。やっぱり、月は帰ってなんかこないんだ。
 ノートを鞄の中に仕舞い、身支度を整える。月と、別の所に行こう。こんなところ、嫌だ。終え
た頃に時計を見上げると、すでにあれから2時間が経過していた。
 ……おかしい。見つからなくても、一度ぐらいは帰ってくるものではないか?
 胸の内に、ざわめきが広がった。吹き荒れる風が木々を揺らすように、不安を掻き立てるざ
わめき。嫌な予感がする。もしも
 もしも、マットが裏切ったらどうしよう。嘘をついた奴だ。なにより、人間だ。もし、もしも、自分
の正体を知り、月をニアに売り渡したらどうしよう。いや、月と逃げようとしたらどうしよう。人間
なんか、信じられない。信じれない。信じたくない。月以外は全員嫌いだ。嘘をつくし、騙すし、
月を盗ろうとする。
 窓を開けた。翼を広げる。硬質の塊が背中を突き破っても、メロは顔色一つ変えず、地を蹴
った。空から探したほうが断然早い。
 もし、マットが月を連れ去ろうとしていたら……殺してやる。何気なくそう思い、コロシテヤルな
んてまるで人間みたいだと一人で笑う。その時、死神の目がマットの姿を捉えた。
 そして





 そして、メロがその場に駆けつけたとき……すべては終わっていた。
 擦れた血が、引きずったかのようにアスファルトに痕を残す。それを辿ると、ボロ雑巾のよう
に横たわった人間がいた。抵抗したような痕もあった。硝煙の臭いがした。大量の血液が、地
面を汚してた。
 そこは寂しい場所だった。人気のない空きビルの裏側。フェンスを乗り越え、入り込まない限
り、人が通りかかることはない。ごちゃごちゃと、使い捨てられた機材や鉄くずが打ち捨てられ
る中、彼もまた同じように捨てられていた。
 死に掛けていたのは、マットだった。
 「……マット……?」
 呼びかける。うつ伏せになり、時折痙攣を繰り返している。もしかしたら、別の人間かも。小走
りに近づき、覗き込む。大丈夫だ。だって、マットにはまだ寿命があった。死にかけてても、きっ
と生きて……
 「……あれ?」
 残念ながら、マットだった。それに驚いたわけではない。驚いたのは……寿命が、代わってい
たことだ。
 「…あ……れ?マット?マット、だよな?そうだよな?あれ……違う?違う……のか、なぁ…
…」
 混乱した。寿命が変えられるのは、死神だけ。あるいは、死のノートを持った人間だけ。
 「もしかして……」
 死のノートを持っている人物は、心当たりとしては一人しかいない。
 「ニア?」
 ぽつりと、口の中で名前を転がす。つまり、目の前の友人は、殺された事になる。それってつ
まり、俺のせい?どの感情を表せばいいのか分からない死神は、死を目の前に首を傾げた。
 「……マット……?」
 げほっと、友人がむせる。ひゅーっと、息を吸い込む音が、やけに大きく聞こえた。
 「め……ろ……」
 覗きこんだ死神に、マットは泣きそうな顔で笑った。
 「ごめ……らいと……月が……つれ、て…いかれ…」
 もう一度、咳き込む
 「に、にげよう、と…思った  だめだったぁ……あっさり、みつかってさ……ごめん、ごめ、
ん、」
 自分が死にそうなのに、必死で謝罪を繰り返すマット
 メロは、大きく目を見開く
 何か、胸の内で大きく音を立て、崩れ始めた




 「……マット」
 自分は死神だ
 「苦しい?」
 安らかに、死を、与えてやれば
 「今、楽に……」
 与え、て……
 「あ……」
 気がつく
 デスノートに書き込まれた死は、けして変えられない
 「あ……ああ……」
 痛みも、苦しみも、悲しみも。それらを消し去ることはできない。
 「あああ……ああああああ!」
 喉の奥が痙攣した。死神になってから、滅多に上げることのなかった悲鳴
 「あああああ……うわああああぁぁぁあ!」
 それが、喉を震わせ、全身も震わせ、声となる。膝をつき、マットの頭を抱きかかえた。殴ら
れた痣があった。打ち付けられた擦り傷もあった。致命的な銃創から、彼の命が零れ出てい
た。
 赦さない
 コロシテヤル
 殺してやる
 激しい憎悪が、全身を駆巡る。そうだ、これが憎しみだ。思い出した。
 「メロ……?」
 掠れた声で友人が名前を呼ぶ。なんと危うい声音だろうか。怒りに、悲しみが付け加えられ
た。そうだ、これが悲しみだ。思い出した。思い出した。
 「ま…っと……ごめん……おれ……俺のせいで!」
 「め…ろ……」
 「ああ…どうしよう……ああああああ!」
 胸からせり上がって来る焦り……不安だ。これが、不安だ。思い出した。
 「ああああ……あと、あと、5分……5分21…20……ああ……どうしよう……どうしよう!」
 「めろ……」
 「助けられない……助けられないんだ!もう……い、いやだ……こんなの、見たくない…見た
くなんか、なかった!なんで、なん……」
 後悔
 恐怖
 懺悔
 焦燥
 思い出す
 思い出す
 人間の感情を。人間だった記憶を。

 今になって、友人の死が目の前にあるこの時になって
 こんな
 こんな、人間の感情が
 「メロ……お前、まさか……」
 「あ…あ…5分、きった……なんで、なんでこんなもん見えちまうんだ?なあ、見たくない……
見たくなんかない!『もう』人の死なんか、見たくない!」
 何故叫ばなかった
 何故、自分はそれを感じなかった
 「俺の寿命……みえるのか………?」
 「あ…う……ぁ………ごめ…こ、こわいよな……寿命なんか、聞かされたら、知らされたら、こ
わい、よな……ああ、ごめ……おれ、余計なことばっか……死神だから……こんなことばっか
……!」
 人が
 人の感情を持つ、彼が
 己の能力に、今更ながら恐れ戦く
 すがり付いても、泣き叫んでも、もう、止められない。
 「マット……こわい……こわい、よ…おれ、も……もう、やだよ……嫌だ、嫌だ!なんで、なん
でいまさら!なんでだよ!お前が死ぬときになって!こんなの、思い出したく、ない!嫌だ!嫌
だあああぁぁ!」
 ぼろぼろと、堰を切ったように零れ始めた涙を見つめるマット。ただ、震え続ける幼い子供
に、こう問いかけた。
 「メロ……お前……
 本当に、死神になったのか?」
 ニアから聞いた情報を口にすると、メロの震えが止まる。涙だけは、流れ続けた。
 「は……はは…そう、だよ……俺……人間じゃ、ないんだ……化け物なんだ……人の寿命を
食らって……生きてるんだ……」
 思い出す。思い出す。自分のしてきた罪の数々を。
 「み……みえなかったろ?人間に……たくさん、ひとを、ころしたんだ……」
 皆殺しにする必要などなかった。自分は、それをやった。家族や、恋人や、大切な人が待っ
ている人たちを、沢山殺した。
 「ニアも…家族も……き、傷つけた……ロジャーも……俺は……俺は!」
 憎かった。それでも、一緒に育った、家族だった。育ててくれた親までも、傷つけた。傷つけて
も、それの重要性を気づきもしなかった。
 「らいとが……月が、だめだっていったのに……俺は、それでも、ころして……」
 どれだけ、月を傷つけたろう。心も、体も。
 「月が、飛び降りても……なんとも思わなかった!死ななくても、目覚めない可能性だってあ
った!死ぬよりも辛い痛みがあるって分かってた!嫌だった、変わるのは、変わっていくの
は、嫌だった!でも、俺の意思に関係なく、体も、感覚も、人ではなくなって、ど、どうすれば、よ
かったんだ?死にたかった!死にたかった!死にたかったんだ!」
 マットは死ぬ。ニアももうすぐ。月だって、いつか自分を置いて死ぬんだ。羨ましかった。そう
だ、これが羨ましいという感情だ。
 思い出す。思い出す。心に傷を付けながら、感情が胸の内に浮上する。
 「月を…こ、殺すぐらいなら!死にたかった!人間に戻れないぐらいなら、こ、こんな、化け物
になんか!」
 声を上げすぎて、喉が痛い。まさに、感情は洪水のように押し寄せ、幼い死神を溺死させよう
としている。藁にも縋るような手つきで、傷ついた友人にしがみ付く。
 「な、あ……俺、見える?人間に、見える?見える?思い出した……思い出した!ああ、で
も、俺は、死神で、だから、だか」
 ふっと
 目の前が、暗くなった。
 涙とは違う暖かい指先が、メロの目を覆う。
 「メロ……
 見るな。
 そんな、辛い数字なんか。」
 視界が塞がれ、マットの寿命は見えない。
 「あ、のさ……メロは……
 人間に
 見えるぞ」
 マットは優しい。メロは首を振る。
 「ばか……ちがうって
 いいか?っていうか、おまえ、人間だぞ?
 人間にしか、みえないぞ?
 他に、なにが、ある?
 だ、大丈夫だよ
 だってほら、別に……口が二個あるとか尻尾が生えるとか……そーいうの、ないんだろ?全
然、人間の、カタチ、してるじゃん。な、中身が化け物みないのなんて、その辺にごろごろいる
ぜ?それに比べりゃ、お前、へーきだよ。
 お、俺さ、頭わりぃから……人間のテイギなんて、わっかんねーけど……
 泣いてるだろ?
 震えてるだろ?
 思い出してるんだろ?
 なら、まだ、ぜんぜん……」
 なんだよその例え。全然意味わかんねぇ……。そう泣きながら笑って見せると、マットも笑っ
た。
 「でも俺……羽だすと、皆に、嫌われる。」
 「なに?羽あるの、すっげー空飛べるじゃん、我侭言うなよ空飛べるなんてすげーぞおい」
 フォローなのか真意なのか、笑い飛ばしてくれる友人。
 「………」
 「なあ…メロ……」
 「………」
 「俺……」
 「………」
 「本当に、もう?」
 なんで
 こんな、辛い答えを言わなければいけないのだろう。
 泣きすぎて、声が喉につっかえた。
 「そ…っかぁ……」
 「俺…俺、誰か、呼んで……」
 「メロ……!」
 顔を背けて逃げ出そうとする友人の腕を、文字通り最後の力を振り絞り、掴む。
 「メロ……月を……たすけてやれ?」
 掴んだ指先は、血のぬめりでメロの皮膚を滑った。
 「…あー…あぁ……」
 マットが、笑った。
 「俺……せめて、月みたいな美人の膝で……死にたかったなぁ……」
 その冗談の言葉が、あまりにも弱弱しく、馬鹿らしく、痛い。
 なんでこんな時に、そんなこと言うんだよ。せめてメロは笑顔になってあげようと、口端を無理
矢理上げてマットに振り返った。
 振り返った。
 振り返って、そして、
 「ぁ   」
 マットの、寿命を見て、
 「  ぁ  あ、あ……」
 もう、メロの目を覆い隠すことすら出来ないマットは、絶望に打ちひしがれたメロの表情に、己
の命の短さを知った。
 もう見るな。もう、見なくていいから。
 遠ざかっていく意識に、マットは最後までいえなかったことを考える。

 ごめん
 俺は
 お前の、月を
 好きに、なってしまった
 ごめんな
 だって
 綺麗なんだ
 すごく
 共にいて、心が安らぐんだ
 綺麗で、大人で、優しくて
 でも
 俺には、必要ない
 必要、なかった
 十分、人として幸せな俺に、月は必要ない
 なあ
 メロ
 泣かないで
 月がいるだろ?
 月が、いるだろ?
 これから先
 お前は一人で
 幾人もの人の寿命を見て
 絶望し
 涙し
 心が悲鳴を上げるんだろう
 それならば
 いっその事、心が壊れて死神になってしまえば良いのに
 でも、お前はそれを選ばない
 選んでも、またもう一度『人』に戻ろうとする

 何故?

 何故、辛いだけの人間に、戻ろうとするんだ?
 俺には、わっかんねぇな……そんな、複雑な気持ち
 なあ
 複雑な気持ちを持つのは
 人間だからだろ
 大丈夫だよ
 人間だよ
 人間だから
 だから
 泣くな

 ……きっと、俺が月を好きだって事を聞いたら、お前はもっと辛くなるだろうから
 だから、言わない
 だから、ちょっとは辛い気持ち、減ったか?
 だから
 だから
 だから
 月を



 だが、死が少年を優しく包んでくれることは、なかった。
 それはまさに
 絶望、だった



 「うぁ……!?」
 「?」
 マットの死が、あと30秒に差しかかろうとしたその時、異変が起こる。体の感覚が麻痺して、
痛みが薄れたと思った瞬間、心臓にナイフをつき立てられたような激痛が脳内に駆巡る。死が
近づいてくるにつれて、その痛みはマットの穏やかな心境をめちゃくちゃに壊しはじめた。
 「あ…がッ……痛……げほっ……ッ」
 「ま…マット……!やっぱ…痛いのか?辛いのか!?なあ!?」
 「あ  あ   あ あ あ   」
 痛い
 痛い
 痛い、痛い、痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたい
 いやだ、痛い、こんな、こんなものが、こんなに辛いものが
 死なのか?
 「マット!もう……終わるから!あと、10、9……もう少し…もう少しだから!」
 痛い、痛い、いやだ、助けてくれ、こんな、痛いなんて
 嫌だ、メロ、痛いよ、痛いよ、助けてくれ、助けてくれ
 助けて
 助けて
 助けて
 助けて
 なあ?
 メロ?
 助けて?
 「マット……マット!痛くない、もうすぐ、痛くなるから、だ、だから……」
 震えるマットにしがみ付き、メロは泣いた。


 「おやすみ」

 嫌だ
 たすけて




 まるで、蝋燭が風に吹かれて消える様のように、激しく痙攣しながらマットは死んだ。
 なんで?
 なんで、苦しんだ?
 メロは呆然と考える。
 ニア
 何故だ
 何故、マットを苦しめた
 何故、ノートの死因に、そのようなことを書いた
 俺の、友達だからか?
 俺達を、匿ったからか?
 「……うっ」
 ニア
 殺す
 「 うわああ あ あ ぁ あああ!」
 再び燃え上がった憎悪に身を焼かれながら、メロは悶える。
 「ニア……ニア!コロシテヤル!殺してやる!絶対に、赦さない!ゆるさない!」
 ごとりと、マットの腕が力を失って落ちる。
 「よくも…よくも、マットを!月を、連れ去ったんだな!殺してやる!殺してやる!ころして   
ッ」
 その時ふと、場違いにも『あの夢』を思い出した。
 荒野の夢だ。そこで、誰かが泣いていることを、何故か思い出す。
 メロは頭を振った。今は、そんなことは関係ない。
 『月を……』
 マットの言葉を反芻させ、メロは天を睨んだ。助けないと。助けないと。約束したんだ。ずっ
と、守ってあげるって。マットとの約束も、付け足された。だから、助けないと!
 「羽……羽を……!」
 人間の感覚が戻った代わりに、死神としての基本的な動作がもどかしくなっている。どうやっ
て羽を出すのか、一々記憶の中から検索しなければならない。今までとは逆だ。だが、これで
いい。
 人間に、戻った。きっと、月は喜んでくれる。泣き叫んだ喉が、痛んだ。痛み?

 ………痛み?

 メロは、ある推測をした。それは、一秒とも掛からない考え。
 自分は、人間としての感覚を取り戻した。
 喉が、痛い。体が、重い。激しい動悸に、吐き気がする。
 痛みが、戻ってきている。
 ……もし
 もし、この状態で
 羽を出したら、どうなる?

 背中の皮膚を突き破り、羽を出したら……!

 「ッ!?」
 ぞくりと、恐怖が全身を震え上がらせる。羽を出すのを止めようとした。それよりもはやく、死
神の体は脳内の命令に反応し、止める動作を検索している意識よりも早く
 人間の
 弱く、薄い、皮膚から
 硬質の翼が
 白刃の翼が
 突き破った
 「……………………!」
 痛みという衝撃に、体の筋肉から力が抜ける。ばたりと、マットの上に倒れ掛かった。
 「あ  あ  う  うッ」
 痛い
 痛い
 背中に、もう一つ心臓があるかのように
 皮膚の裂傷は、メロを更なる絶望へと追い詰める
 「うわあああぁぁあああああ!」
 声を上げて、痛みを逃そうとした。それでも、背中から送られる激痛は、脳内を激しく揺さぶ
る。同時に、膨大な感情が、再び心の中に沸き起こった。
 「あ  あっ  ああ、マット  どう 痛い  痛いよ 痛いよ!」
 憎悪 悲しみ 恐怖 喪失 衝動 痛み、痛み、痛み……
 「どぉして!?どうして……俺……こんな…こんな!痛……ああ……俺……死にた……死に
たい!死にたい!死にたい!」
 地面に爪を立てる。痛みは、再び少年を死神へと引きずり込もうとする。痛みで混乱した記
憶から、羽を制御する方法を探し出すのは不可能だった。
 「いやだ……なんで?……お、俺が…悪かった、から、もう、殺さないから、誰も、誰も、だか
ら……!」
 ずるりと、内臓が引き出されるような異様な感覚が加わる。背中が重い。立てない。苦しい。
肺が、潰れる。
 「殺さない、殺さないから、だから、死なせて
 痛いよ
 痛いよ
 痛いよ
 痛いよ
 痛いよぉ……!」
 苛められる子供のように、泣き叫ぶ死神。

 その時だ。

 『また』あの夢を、思い出した。
 「…………………」
 傷みの最中、やけにそれだけがはっきりと、瞼の裏に焼きつく。

 ああ

 思い出した
 思い出した!

 あの荒野で泣いていたのは

 俺だ

 あれは
 夢じゃなくて
 本当に、俺が
 自分が、死神になったあの時の俺が

 死んだことに
 死神になったことに
 羽が生えたことに
 痛みに
 苦しみに
 恐怖し、狂い掛けたんだ。

 ああ、ああ!
 思い出した
 思い出した!

 俺は

 俺が、死んだ元凶となった月を


 殺そうと思って

 不幸にしようと思って

 人間界に、降りたんだ…………!




 全てを思い出し終わり、それを見計らったかのようにぷちんっと痛みが途切れる。限界を超
えた感覚は、少年の心を守るため消え去る。だがそれに、メロはまるでまた、体が死神に戻さ
れたような恐怖を味わった。
 「月……月……
 嫌だよ
 死神に
 なりたくない
 なりたくない……」
 人間に戻れるのなら、痛みがあってもいい。
 たとえそこに
 激しい憎悪があったとしても
 愛した人に殺意を抱いても
 痛みが欲しい
 人間である証拠が、欲しい
 「ああ……らいと……」
 人間は
 こんな
 こんなにも、沢山の感情を
 あんな、ちっぽけな体に詰め込んで
 なんで、生きていられるんだろう?
 俺には

 無理そうだ
 「……あいたい……」




 羽を生やしたまま、意思を失った瞳。
 友人の亡骸に縋りつき、痛い痛いと泣いた声は、もう聞こえない
 今もなお、背中から羽は引きずり出され
 その姿はまるで
 幾つもの刃を背中につき立てられた、罪人のようでもあった。


 
 


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