空白の会話を反転すると文字が出ます

最終章 春


 今日もあまり眠れない夜を過ごし、月は目を擦りながら起きる。
 「おはよ。」
 挨拶をしてきたのは死神だった。月は顔を上げ、
 「……おはよう。リューク。」
 挨拶を、返した。掃除もしていない薄汚れた窓の外から、朝日が差す。
 今日も良く、晴れていた。


 寝ぼけ眼で自分に与えられた部屋を出て、洗面所に向かう。小さいながらも一軒家であるこ
の家の主人と、途中で顔を合わした。
 「おはよう。……あまり、よく眠れてないみたいね。」
 「……おはようございます、ハル。」
 指摘されたことにはあえて答えず、月は曖昧な笑みを浮かべて返事を返す。
 その後、二、三言葉を交わし、今日は仕事があるから留守をよろしく頼むといわれ、会話が
終わる。
 月は頷いて、洗面所に向かった。鏡を見て、またやつれたと実感した。


 朝食を終えた後、机に向かって便箋用紙に文字を綴っていた。
 リュークはしばらく、ベッドの上でごろごろしながらそれを眺めていたが、ペンが走る音しかし
ない部屋に居心地が悪くなったのだろう。こんなことを言った。
 「なぁ、月……いつまで、ここにいるつもりだ?」
 「メロが帰ってくるまでだ。」
 月の言葉は即答だった。リュークは一瞬押し黙り、
 「たしかにさぁ、あのねーちゃんは、しばらくここに居たらいいって言ったけど、やっぱ迷惑だ
ろ?そう思わない?」
 「うん、そうだね。」
 「じゃあ……!」
 「だから、もうしばらくしたら別の街に行って、そこでメロを待つよ。」
 「………………。」
 リュークが再び押し黙る。
 「月」
 少しだけ、声のトーンを下げたリュークが、
 「帰ってなんか来ない。諦めようぜ?」
 「待ってる。」
 月の言葉は、いつでも即答で。
 「待ってる。ずっと、僕は待ってる。」




 それは、マットが住んでいた部屋でのこと。
 メロは無断で失礼と思いつつも、彼の部屋に入った。すでに中はがらんどうで、恐らくはこの
アパートの大家か誰かが片付けてしまったのだろう。残っているのは大型の家具や、売れない
ガラクタばかりだ。
 メロは寝室へと入る。ベッドとサイドテーブルが残っていた。以前はそこに、友人同士で撮っ
た写真が残っていたのだが、跡形も無い事を知ると落胆する。せめて、一枚くらいはあったら
よかったのに。
 アパートを出ると、今日も良く晴れていた。空を見上げる。目を細めた。だが、けして笑みで
はない。
 眩しいものを、けして己の手では触れてはいけないと愛おしく感じるような、悲しい瞳だった。
 「……メロ?」
 名前を呼ばれて、驚く。いや、姿を認識されたことに驚愕した。そちらを向けば、随分前あの
部屋でメロを歓迎するパーティーをやった一人が立っている。
 メロは知らないだろうが、その少年は、メロが友人の一人を殺したのではと疑った者であっ
た。
 彼はたじろぎ、メロを幽霊を見たかのような目つきで見回すと、
 「あの……どうして……?逃げたんじゃ……」
 メロは顔を背けた。拳を握り締め、逃げようと身を翻す。
 「あ……おい!」
 その少年は、メロの前に回りこんだ。しばらく、なんと声をかけたらいいのか迷っているらし
く、俯く彼にこう尋ねる。
 「マット……死んだぞ。……それ、知らないで、ここに来たのか?」
 そうじゃない。ただ、ほしいものがあったのだ。だがいまや、自分にはそれを伝える声がな
い。メロはただ頭を垂れ、もうこれ以上かまわないで欲しいと願った。
 その姿を見た少年は、沈黙してしまう。まるで、理不尽な暴力を振るわれた後の子供のよう
だった。ただ泣きながら、すべての痛みが早く過ぎ去ってほしいと願うように、彼はそのささや
かな願いに頭を下げ、自分が立ち去るのを待っていた。
 彼には何か、自分自身では背負いきれない不幸を受けたのだと直感する。だが、どうするこ
ともできなかった。
 再び、己の足でその場を逃げようとするメロに、少年はポケットから写真を取り出す。
 「あ……あのさ!」
 ずっとずっと、ずっと前、メロとマットがようやく仲良くなり始めた頃に皆で撮った写真。自分
も、これしかないからなくなると困るのだが、何時の間にかサイフからそれを取り出し、メロの
前に差し出す。
 「前……一枚、ほしいって言ってたから……その、やるよ。」
 こんなものでどうにかなるとは思えないが。そう思ってメロの顔を見ると、彼は写真を凝視して
いた。
 自分の中で失われてしまった何かが、薄い紙切れの中に存在するかのように、彼は震える
指先でそれを受け取る。触れれば壊れてしまう宝物のように、メロは穴が開くほど写真を見つ
めた。
 そして、それを抱きしめ、蹲る。
 「え!?あの…ど、どうした?な、なに……?」
 泣き出してしまう彼に戸惑う少年。彼にはわからないだろう。その、たった一枚の写真が存在
するお陰で、自分が本当に存在していたということを、メロは思い出せる。存在した証、存在し
ている意味、感情を伴う思い出。それが少しずつ、砂のように零れ落ちる死神にとって、その
写真は本当の意味での宝物だった。いつの日か、長き時を経て、その写真が色あせボロボロ
になり、灰と化す絶望がやってくるとわかっていても、それを放さずにはいられなかった。
 「な……なぁ?どうしたんだよ?泣くなよー…」
 長い時を生きて絶望を垣間見た時、この写真を見つめれば、なにもない体の中に微かな暖
かさを感じることが出来るだろう。困ったように慰めてくれる友人や、自分のせいで死んでしま
ったマットのことを思い出し、死神に戻ったとしても、人だった時を思い出せるかもしれない。
 僅かな希望を、今は信じるしかなかった。




 書き終えた手紙を封筒に閉じ、投函しようと外に出る。季節は何時の間にか、春へと移り変
わっていた。煉瓦造りの道を、リュークと共に歩く。人通りは少なかった。のんびりと、緩やかに
時間を過ごす人々を横目に、月もまた歩調を遅くする。
 「……月。メロはきっと、死神になったんだよ。だから帰って来ないんだ。
 もぉ諦めようぜ?帰って来ない、帰って来ない、帰ってなんか絶対こないよ。」
 月の周りをちょろちょろと、小蝿のように五月蝿いリュークに、月は小声でこんなことを言っ
た。
 「リューク。また、『アレ』を教えて。」
 「だーかーらー…帰ってなんかこないのに……」




 誰もいなくなった孤児院内は、春の陽だまりに温まり、穏やかな静寂を刻む。
 ロジャーは荷物を全て片付け終えると、院を後にした。子供達の足跡が消えた花壇や、落書
きが書かれた壁をゆっくり眺め、彼は思い出す。
 ニアの遺体は、ロジャーの元に送られてきた。メロとは違い、眠ったような遺体が入る棺桶に
縋りつき、老人は泣いた。どうしてこんなことになったのか。誰が一体悪かったのか。老人は他
人を憎むことが出来なかった。その問いは、己に向けられた。
 自分は彼らに、なにができたというのだろう。ただ、必要のない死を与えただけじゃないか。
ニアは苦しみながら死んでいった。メロは、人ですらなくなってしまった。
 未来ある子供達に、もう二度と触れてはいけない気がした。絶望の末、老人はそう嘆く。自分
は、償え切れない罪を犯してしまった。どうしてこのような老いぼれが、未だ生き残っているの
だろう。不思議に思う。
 何時の間にか足は、ニアとメロの墓へと向かっていった。自分はこれから死ぬまで、彼らの
墓の前で懺悔をし、泣いて許しを請わねばならない。それは問題ではない。問題は、そんなこ
とをしてもなんの罰にもならないということだ。
 メロ、どうして人をやめた。殺戮を目の前で繰り広げた、あの幼い笑顔を思い出す。もう、人
には戻れないのか。戻りたくないのか。戻ってくれるのならば、この短い命など、幾らでも捧げ
てあげるのに。気が狂うほどの痛みすら、甘んじて受け入れるのに。
 せめて、せめてもう一度だけ、姿を見せてくれ。そして、罰を与えてほしい。墓地の門で、彼は
泣いた。二人の墓を見てしまったら、今度は自分から命を絶ってしまいそうだった。
 「     ?」
 その言語は、まったく老人には分からぬものであった。
 が、その声に聞き覚えがあり、ロジャーは顔を上げる。門の向こう。緑の芝生の、白い墓の、
二つ石が並んだ場所に、メロが立っていた。
 よく、その表情は覚えている。いつの日だったか、メロが悪ふざけをしてニアを傷つけたとき
があった。ロジャーが怒るよりもはやく、彼は大変なことをしてしまったという顔で蹲っている友
人を見下ろしていた。なんと許しを請えばいいのか分からず、震える唇を両手で覆い、息を詰
めるのだ。彼はその時よりも、数倍酷い顔をしていた。世界中から批難され、頭を垂れながら
それを受け止めているような、切実な表情。老人と目が合うと、メロは素早く身を翻した。その
駆け足は老人では追いつけない。すぐさま、彼の姿を見失う。
 どうしてそんな顔をしていたのか。そんな顔をしなくていい。悪いのは自分なんだ。ロジャーは
呆然と、メロの姿を目で探す。結局見つからなかった。彼はここに、なにしにきたというのか。
 その答えは、ニアの墓の前にあった。
 「ああ……」
 ロジャーは再び泣いた。悲しみではない。
 「メロだ……」
 帰って来た。あの子が、帰って来た。
 何処で摘んできたのか。死を慈しみ、悲しむ人の心が残っている証拠に、小さな花が置かれ
ていた。地面にはめ込まれた、白い石の表面に、幾つも水滴があった。老人は更にその上か
ら、己の涙を落としていた。




 その夜、月は荷物の整理をした。いるものといらないものを別け、自分の分とメロの分を持
ち、夕食時、ハルと話をした。色々おせわになりましたというと、もう少しここに居たほうがいい
といわれ、それでもご迷惑になるからとしばらく押し問答が続き、いつ発つの、と諦めたように
聞かれ、明日ですとはっきり答える。
 再び、明日では早すぎる、いいえ明日で大丈夫ですという話し合いが続き、彼女がこんなこと
を聞いた。
 「……メロが戻ってくるまで、ここにいるんじゃなかったの?」
 月は頷いた。
 「戻ってきます。きっと、僕の所に戻ってきます。」
 だから、大丈夫ですと、月は笑った。




 その日、なにか予感めいたものがあり、夜神粧裕は夕飯の後、郵便受けを覗き込んだ。
 一体何処で住所を手に入れたのか知れぬダイレクトメールや、ガスの請求書に混じって、真
っ白な封筒が混じっている。
 彼女はまず自分の部屋に行き、鍵をかけ、カーテンを閉じると、逸る気持ちで封を切った。そ
んなはずはないと思いつつも、もしかしたら兄は優しいからこんなことをしてくれるのではと想像
し、そして手紙を広げる。
 必ずこの手紙は燃やしてほしいという一文から始まり、今、どのような心境であるかが、繊細
な文章で綴られる。
 インクが滲んでいるのは、涙だろうか。それをなぞりながら、最後の一文を、粧裕もまた涙し
て見た。
 以前、世界は本当に酷い所で、兄を救ってくれる光など、僅かすら射しこまない最低な所だと
思っていた。でもそれがこの瞬間だけ、現金なもので、もしかしたら絶望の中でほんの少しだけ
救いを与えてくれる神様がいるのではないかと信じてしまった。

 僕の大切な人が戻ってきたら、また、帰ります。

 彼女は、手紙を抱いて、嬉しさに泣き続けた。




 次の日の朝。
 月は朝早くから身支度をして、彼女を起こさぬよう階段を下りた。世話になった彼女と家に頭
を下げ、月は扉を開ける。
 そして

 目が、合った


 「メロ」
 偶然、ではないだろう。
 何度も何度も迷った挙句、結局家に入れなかった幼い死神が、ドアの横で蹲っていた。泣い
ていたのか、目を腫らして月を見上げる。いつからここに居たのだろう。昨日の夕方までは居
なかったはずだ。では、夜の間ずっと?月は思わず笑ってしまった。
 笑われたことを不服と思ったのか、メロは唇を尖らすが、人の言葉が発せずに俯いてしまう。
月は扉を閉めると、玄関の階段に腰をかけ、メロの隣に座った。しばらく、黙り込む。

 『あの』日
 メロは、味方となってくれたハルに月を任せると、忽然と姿を消した。
 それから2ヶ月。月は見つかる危険性を冒してまで、一箇所に留まり続けた。メロが帰ってく
るまで、移動したくはなかった。帰って来た時に、探す手間が省けるようにと思ったから。

 メロは何度か言葉を発しようと頑張った後、結局ペンと紙を取り出し、筆談にしようとした。
 それを、月が制する。
 首を傾げるメロに、月は微笑んで、彼の名を呼んだ。
 「メロ
 メロが、あんぐりと口をあける。
 「おかえりメロ 」
 月が話している言葉は、死神の言語であった。
 メロは戸惑いながらも、
 「……話せるの俺と話せるの!?」
 「もちろんさ
 月は優しく頷く。
 「どうしてどうしてはなせるの!?」
 「覚えたのさ。覚えるのだけは、得意だから」
 リュークに頼んで何度も教えてもらったのは、このことだった。そのことを伝えると、メロの表
情は一変した。本当に、彼には自分の言葉が伝わっているのだ。それが信じられなくて、何度
も何度も確認しあう。
 「え、あ、嘘……本当か本当に?」
 「うん
 「俺の言ってることわかるわかる?」
 「うん うん!」
 心細かったのだろう
 自分の思いが伝わらない。人ごみの中、言葉も通じぬ街で唯一人立ちすくむような悲しさに、
何度涙したことか。
 「ごめん……俺、俺……怖くなって
 もう、俺、どこまで人なのか、わからなくて、
 ま、また
 また月を傷つけると思って
 だから、逃げて、逃げたんだ、またにげたんだ
 怖かったのだろう
 再び、人としての何かを忘れ、月のか細い首を締め上げるかと思うと、平常心ではいられなく
なった。
 「ごめんね……」
 メロは両手で顔を覆い、許しを請う。そんな死神に、月はそっと肩に手を回し、抱きしめる。
 この先
 また、この死神は己の醜悪な精神に耐え切れず、逃げ出してしまうかもしれない
 「ごめん……一人にして……ごめん……ごめん……」
 足元すら見えない暗闇の中、この世界には希望なんてないと思い知って、立ち上がりたくなく
なるかもしれない。
 「でも、俺、弱いから……
 全然、駄目なんだ……
 だから、きっとまた、
 月から逃げると思う……
 だけど、絶対に、帰って来るから
 かえって、くるから
 だからそんな時、どうか俺を見捨てずに、待っていて欲しい。
 暗闇の中で迷子になったとき、どうか、貴方が持っている僅かな光で、俺を助けて欲しい。
 「かえって……くる…から……」
 本当は、まずは貴方に謝らなければならないのだろうけど
 今は、貴方にただひたすら、助けを求めよう
 「メロ……わかってるよ
 月は頷いた。そして、その柔らかな金髪に顔を埋める。
 「共に……生きよう。」
 そう、泣きながら誓った。









どんな時だって
ずっと二人で
どんな時だって
傍にいるから
君という光が 私を見つける
真夜中に

    宇多田ヒカルより  『光』




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