![]()
仔猫、空を飛ぶ
ライトは息を飲んだ。
ごくり、と喉を鳴らし、震える足を踏み出す。
小刻みに揺れる自分の足を叱咤し、ライトはもう一歩前へと進んだ。
『やっぱり・・・やめた方がいいんじゃないか?』
死神リュークが心配そうに呟く。
その言葉に、ライトは強く頭を振った。
「駄目だ。今なら――今なら、出来そうな気がする」
『そうか・・・』
ライトの確固たる決意を理解したのか、リュークはそれっきり何も言わなくなった。
ただ、部屋の中を漂いながら、不安と気遣いの混じった目でライトを眺めている。
そんなリュークの見守る中、ライトは静かに囁いた。
「・・・よし。行くよ」
言葉とほぼ同時に、ライトは地を蹴った。
その身体がふわり、と宙に浮く。
リュークが驚きの眼差しで、ライトの姿を目で追った。
ライトの背中に、闇よりも濃い漆黒の翼がはためく。
日常の景色にその存在があるのが不思議なほどの、鳥肌が立つような美しさ。
ライトは歓喜の表情を浮かべた。
刹那――。
バンッ。
べしゃ。
「ぎゃん!」
「・・・えっ?」
唐突に開いた扉に、ライトは見事に激突した。
そのままぼてっとフローリングの床に落ち、顔を押さえて唸っている。
ライトに扉をぶち当てた張本人――世界の名探偵Lこと竜崎は、状況が分からずにぽかんと
口を開けていた。
「ラ・・・月くん・・・?」
『あ〜あ』
リュークがやれやれと言わんばかりの顔で呟いた。
Lは視線をライトからリュークに向ける。
「どうしたんです?」
『どうしたもこうしたも』
リュークは自身の背中の羽根をばさばさと動かした。
『飛ぶ練習をしてたんだよ。・・・まあ、結果は見ての通りだが』
「・・・飛ぶ練習・・・」
Lは途端に渋い顔になって、ライトに向き直った。
当のライトは鼻を押さえてひたすら痛がっている。
「こら、月くん」
「・・・痛い」
「飛ぶ練習はあれほど禁じた筈なのに、どうしてまたやってしまうんですか」
ライトは涙目でLを睨んだ。
「おまえ、馬鹿じゃないの?」
「・・・私が、馬鹿?」
ふふん、と鼻で笑って、ライトはLを指差した。
「飛ぶ練習をする理由なんて、決まってるだろ!」
「・・・訊いてもいいですか?」
ライトは思い切り相手を見下すような表情になった。
得意気です、と言わんばかりの顔で、理由を口にする。
「新世界の神たる者だな、空の一つや二つ、飛べなくちゃならない。全人類の普遍的な欲求で
もある、地から足を離して宙を舞うと言うことは、矮小で愚鈍な人類と言う名の檻からの脱出― ―」
『こら!ライト!!おまえ、まだそんなこと考えてたのか!?』
「はは、おまえも馬鹿だね、リューク。僕はゴミ屑のような者を掃除して世の中を綺麗に――む
ぐっ」
『おまえと言う奴はあぁあっ!!あれほどあれほどそう言う考えは改めろって言っただろうがあ
あぁあ――!!』
「うるさい!僕に意見しようだなんて、一世紀ほど早いんだよ、ばーか!」
どたばたと走り回る二匹の死神。
非現実的な日常の様子を眺め遣って、Lは額に手を当てて溜息を吐いた。
三日前。
いつもと同じように、Lはベッドの上で目覚めた。
ふと隣を見ると、いつもそこに見える筈の薄茶色の頭が見当たらない。
「月くん・・・?」
Lは訝しげに呟いて、きょろきょろと部屋を見回す。
しかし、ライトはいない。
と、その時、リビングから何やら話し声が聞こえてきた。
「ワタリ・・・月くん・・・リューク?」
時計の針は、ちょうど六時を指している。
「こんな朝早くから、一体――・・・」
Lは不思議に思いながら、リビングに通じる扉を開けた。
途端に、声が飛んでくる。
『お、Lが来たぞ』
「やっと起きたな!」
「お早うございます」
Lはぽかんとして三人を見つめた。
何だか皆、妙に機嫌が良い。
「一体、どうしたんですか・・・?」
Lの問いに、ライトが嬉しそうに笑った。
「気付かない?竜崎」
ライトは羽根をはためかせて、Lに流し目を送る。
薄茶色の髪は窓からの陽光に透けるようで、すらりとした立ち姿はそんじょそこいらのモデル
が裸足で逃げ出すほど。
Lはぽかんとして、未だ慣れることも飽きることもない秀麗な容貌に見惚れていた。
見惚れて――・・・。
「・・・・・・――――って、羽根!?」
「御名答」
Lが叫んだ通り。
昨夜まで、その頭脳と容姿を除いて、
普通の人間と全く変わりのなかったライトの背中には、漆黒の翼が揺らめいていた。
「ちょ、え・・・そ、それは、一体・・・!?」
「羽根だよ。今朝起きたら、生えてたんだ。これで僕も一人前の死神ってわけ」
ライトの言葉に呼応するかのように、背中の羽根が揺れる。
Lはそんなライトを、人間を誘惑してその精気を啜る淫魔のようだ、とか夢想しかけたが、慌
てて我に返った。
「一人前の死神――と言うことは、まさか、あなたは更なる殺傷能力を身に付けたのです
か!?」
それならば非常にまずい事態だ、とLは戦慄した。
しかし、ライトの返事はあっさりしたものだった。
「はあ?これ以上殺傷能力なんて、上がるわけないじゃないか。レベルアップしたら本質的な
能力まで変化するなんて、在り来たりな考えは捨てるんだね。阿呆。蛙。おまえゲームのやり 過ぎだ」
「・・・・・・は?で、では・・・?」
Lの問いに、ライトは偉そうに胸を張った。
「羽根が生えるとね、空を自由に飛べるんだよ!」
「・・・・・・それだけ、ですか?」
「それだけとは何だ!人がこんなに喜んでるのに――・・・ああ、そうか。おまえ、羨ましいんだ
ろ?ははっ、あげないよーだ。これは僕の羽根だからな!」
「・・・・・・」
Lは黙ってソファーに腰掛けた。
ワタリに目配せすると、有能なLの右腕はすぐに温かい紅茶とショートケーキを運んでくる。
「どうぞ」
フォークでケーキを突き刺し、口に運ぶLの後ろでは、無視されたライトが怒っている。
かなり酷い暴言も飛んで来たが、Lは黙ってケーキに集中した。
と、Lの後ろに静かに立っていたワタリが、唐突に口を開いた。
「ところで、竜崎」
「何だ?」
「月様の件なのですが――・・・」
「・・・?」
ワタリは目を細めて、嬉しそうに言った。
「今夜は、お赤飯を炊いた方が良いでしょうか?」
「・・・・・・・・・」
Lは何だか眩暈がした。
しかし、物事と言うものは得てして期待通りにいかないわけで。
『おい、そうじゃなくてだな――・・・ああっ!ライト、危な・・・・・・!』
「うわわわわ――・・・!!」
べしゃ。
ライトが望んだように空を飛ぶ為には、やっぱりそれなりの練習が必要なのだった。
そう言うわけで、ライトはリュークの監督の元、延々と飛行訓練を繰り返しているのだ。
初めは部屋が汚れると文句を零していたLも、もはや黙認している。
本日何度目か、壁にぶつかったライトは、ずるずると床にしゃがみ込んだ。
既に、壁に掛かっていた幾枚かの絵画は全て床に叩き付けられて破損し、棚の上の調度品
は落下し、床の上には至る所に黒い羽根が散っていた。
飛行の際にライトが色々なものにぶつかったせいで、部屋の中は滅茶苦茶だ。
「痛い・・・」
鼻を押さえて蹲り、ライトはとうとう泣き出した。
「・・・うう・・・どうせ僕なんて、羽根が生えてたって生えてなくたって飛べないんだ・・・」
可愛い養い子の涙に、リュークは慌てる。
『い、いや、大丈夫だぞ。いつかきっと飛べるようになる。俺だって、ちゃんと飛べるようになる
のには一年くらい掛かった』
「・・・グス・・・リュークと一緒にするな・・・」
可愛げのないその返事に、リュークは額に青筋を立てそうになったが、ここで怒鳴ると一週
間は口を利いて貰えないので我慢した。
『自転車だって、すぐには乗れないだろう?あれと同じだ。毎日練習していればきっと――』
「やだやだやだ!僕は今すぐ飛びたいんだよ、馬鹿リューク!」
『・・・我が侭言うな!』
「うっさい黙れ!」
ぎゃんぎゃんと喧嘩し始めた死神たちに、部屋の隅でモニターに向かっていたLは、「はあぁ」
と深い溜息を吐いた。
面倒くさそうに立ち上がり、掴み合いの喧嘩にまで発展した二人の間に割り込む。
「うるさいですよ。ほら、離れて下さい」
「だって、リュークが!」
『だって、ライトが!』
「はいはいはい」
Lは喚く二人に頓着せずに、ライトとリュークを引き剥がした。
リュークは大人しくなったものの、ライトはまだ騒いでいる。
「リュークの教え方が悪いんだー!僕は悪くない!」
「月くん」
「黙れ竜崎!僕を怒らせるとだな、死神界にいる何千何万と言う死神がおまえを殺しに――」
「・・・・・・全く」
Lはライトの方を掴むと、自らの方に引き寄せた。
「わわっ・・・?」
バランスを崩して蹌踉めいたライトの唇を、Lは自分のそれで塞いだ。
『ウホッ!?』
「んんん――・・・!?」
リュークが固まっている横で、Lは長々とライトの口内を蹂躙した。
ライトはどんどんと相手の胸を叩いたが、Lは全く構わない。
ぴちゃ、と濡れた水音がしてLが離れた時には、ライトの息はすっかり上がってしまっていた。
Lが手を離すと、支えを失ったライトはずるずると床にしゃがみ込む。
「おや、立てなくなるほど悦かったですか?」
「・・・ち、ちがっ・・・!お、おまえ、こんな昼間から――・・・!」
「すみません」
「謝っても駄目!許さない!」
Lはライトの目線に会わせるように身を屈めた。
薄茶色の髪に手を這わせながら、優しく呟く。
「すみませんでした。でも、私は月くんのことが好きなので。我慢出来なかったんです」
「なっ・・・!」
Lの突然の言葉に、ライトは顔を赤くした。
リュークは状況に付いていけず、ぽかんと口を開けていた。
「り、り、竜崎!リュークもいるのに、そんな・・・」
「ですから」
Lはライトの髪を弄っていた手を、相手の頬に滑らせた。
「私はあなたに飛行能力を身に付けて欲しくないんです。空を飛べなければ、あなたは死神の
世界に帰ることもない。ここにいるしかないでしょう?」
「・・・・・・!」
ライトは一瞬虚を衝かれたような顔になり、すぐに頬を紅潮させた。
「・・・我が侭だな、おまえ」
「ええ。だから謝ったんです」
ライトは頬に乗せられたLの手をぱしんと振り払った。
「仕方がないな。おまえがあんまり聞き分けがないから、譲歩してやるよ」
「ありがとうございます」
ライトはLに向かってにっと笑んで見せた。
Lも笑みを返す。
「じゃー僕はまたノートを探すかな」
「見付かりっこないですよ」
「はは」
機嫌良く去っていくLとライト。
後には、呆然とした死神リュークが残されているばかり。
二人がいなくなってから、はっと我に返ったリュークは、開口一番、こう叫んだ。
『ラッ、ライトオオオォォ―――!!俺はそんな男との交際は絶対認めないからな!!』
フロア中に響き渡る大声を、残念ながらLとライトは聞いていなかった。
後日。
「な、何だこれは!?」
ホテル側から回された、ライトの壊した部屋の修理代の請求書を見て、Lは思わず驚きの声
を上げた。
ワタリが沈痛な面持ちで答える。
「どうやら、月様が破壊した絵画の中に、有名な画伯の絵がありましたようで・・・」
「・・・・・・・・・」
あり得ない額の請求書を見て、Lは寝室の方へ目を遣った。
そこには、元凶の仔猫が眠っている筈だ。
眠って――・・・。
がしゃーーーん!!
寝室の方から、何かにぶつかる音が聞こえてくる。
続いて、泣き声とそれを宥める声も。
「・・・・・・・・・・・・さっさと追い出せば良かったかも」
絞り出すように呟いたLの言葉にワタリは何も言わず、せめてもの慰めに、ポットから薫り高
い紅茶を注いだのだった。
![]() |