ばさばさと。
ばさばさと、ばさばさと。
白いカーテンがばさばさと。
空っぽのベット、空っぽの椅子。主人の帰りを待つ家具は、もう使われることはないだろう。
出て行ってしまった青年を追わず、Lはその部屋を見つめていた。
部屋の中では夜風に揺られ。
カーテンだけが存在を主張している。
ばさばさと、ばさばさと。



小鳥は天高く舞い上がり 上



 夜神月の目の記憶は、砕け散ったフロントガラスで終わっている。
 久しぶりに家族でどこかに行こう。そう提案したのは彼だった。父が心臓発作で倒れたにも
かかわらず、仕事で家に帰れないその状態は、家族に精神的負担をかけていた。それをいち
早く察した息子は、夕食に母と妹に車でドライブにでも行かないかと言った。妹は笑顔で承諾
し、母はさっそく雑誌を持ってきた。日程は、その週の休みに決まった。
5月23日のことだ。高速を乗り継いで2時間、行き先は日帰り温泉という男にとってはあまりう
れしくない場所となったが、女二人に言い捲られて、結局行くことになった。
 高速なんて、ペーパードライバーの母に大丈夫かと心配したら、母は少々引きつった笑みで
大丈夫だと答えた。彼女は彼女なりに、久しぶりの子供たちとのドライブに気を使っていたの
だ。
 その日、ドライブは母が家の壁に車の端を擦り付けたこと以外順調に進んでいた。高速道路
も渋滞は無く、あと数十分で高速を抜けれるそんな時だった。
 月は助手席に座っていた。だいぶ運転に慣れた母を横目に、後ろにいる妹から雑誌を貸し
てもらった。目的地の特集記事を眺めながら、ドライブで日帰り温泉ってどうなんだろうかと疑
問に感じてると、目の前がふっと薄暗くなった。
 顔を上げたときには、前の貨物自動車が乗せていたはずの鉄パイプが目の前に迫ってきて
いた。風圧によって積荷ロープが緩んだものだったが、それを理解する前に、パイプはフロント
ガラスにのめりこんでいた。



 夜神月の乗った車が、高速で事故を起こし、彼が瀕死の重傷であると聞いて、Lこと竜崎は、
父親の総一郎と共に病院に駆けつけた。自分は行かなくても別に構わないという現実的意見
が頭を過ぎるものの、体はいつの間にか彼のいる集中治療室にいた。
 目と右肩に大量の包帯を巻き、口に呼吸器マスクをつけて彼は何かをつぶやいていた。ガラ
ス越しで見ていた自分には最初よくわからなかったが、なにか同じ言葉を繰り返しているのが
解った。治療室から出てきた総一郎に尋ねてみると、彼は悲痛な表情で答えてくれた。
 「母さんと粧裕は無事か……ずっとそれを繰り返している。」
 どう答えたのか聞いが、答えは予測していた。
 彼はただ一言。
 「嘘をついてきた。」
 その2週間後、総一郎の病態が悪くなり、さらにその3日後には亡くなった。キラの犯行かど
うかはわからなかった。ただ、キラの容疑をかける寸前までいっていた夜神月は、その時にも
意識を失っていた。



 ばさばさと、ばさばさと。
 布のはためく音がする。
 月の意識が回復したとき、聞こえてきたのはカーテンの揺らめく音だった。真っ暗だったた
め、今は夜なのだと思い、しばらく動かなかった。
 次第に月も星の明かりも無いことに気がつき、彼は起き上がろうとした。右肩に激痛が走り、
今になってフロントガラスの割れた記憶が過ぎった。だがそれでも、彼はその事故の直後だと
思い込んでいた。
 「月君?」
 暗闇の奥で、男の声が聞こえた。松田という名前が出てくるのに、ひどく時間がかかった。
 慌しい足音の後、沈黙が周りを支配した。自分はこのまま暗闇に取り残されてしまうような気
がして、月は松田の名前を何度も呼んだ。しばらくすると、左手に暖かい感触が触れた。
 月はその手に縋りついた。相手は、その行動に驚いたようだ。声が裏返っていた。
 「大丈夫ですか?」
 「誰?」
 思わず聞いてしまう。声の主はしばらく間を置いて、
 「竜崎です。解りませんでしたか?」
 どうして電気もつけずにいるの?月は逆に聞いた。
 答えは、やってきた医者によって明かされた。
 「砕けたガラスが、貴方の目を傷つけててしまったんです。右肩の傷は今、回復に向かってい
ます。肩は傷は残りますが、後遺症は無いでしょう。」
 視力は回復するんですか?その質問に対し、テレビに出てくるような悲痛な色はなにもなく、
ただ淡々と告げられた。
 「あなたの視力は、もう回復しません。」
 Lに縋りついた手が、いっそう強く握られた。



 「竜崎、このままの捜査方針で行くのは、どうかと思う。」
 初めに意見を言ったのは相沢だった。どちらかといえば夜神月に疑心の念を抱いていた彼
の言葉に、竜崎は少々驚いた。だが、よく考えてみれば、彼には娘がいる。子を想う彼の心
が、月にキラ容疑をかける事を咎めたのだ。無論、他にも理由はあった。
 「月君と話をさせてください。それで、今後の捜査の見直しをします。」
 そうはいったものの、それはつまり、Lの口から全てを話さなければならないということだっ
た。あえてそれを買って出たのは、月に友人以上の感情を持ち合わせていたせいもあったか
もしれない。だが、いざ横たわる月の傍に行くと、彼らしくもなく足がすくんだ。
 来てくれてうれしい。月は力ない笑顔で言った。
 「早く元気にならなくちゃ。母さんや粧裕の病室にもいきたい。父さんは元気にしてる?」
 おそらく彼の記憶の中には、父の言葉が微かに残っているのだろう。それが、視力を永遠に
失ったと宣言された彼が、笑顔でいられる理由なのかもしれない。自分はこの笑顔を、地獄の
どん底に叩きつけるのだ。
 「月君、まずはいわなくてはならないことが。おめでとございます。」
 「おいおい、視力をなくした人間にたいして、そりゃないよ。」
 「貴方のキラの容疑が完全に晴れました。」
 それは嘘だ。Lは前と同じく彼をキラだと思っているが、あえてそういった。
 「どうして?僕が意識を失っている間に、新しく報道された犯罪者が死んだのかい?」
 「はい。」
 「竜崎は、それで疑うことをやめる人間には見えないけど。」
 「酒に酔った男がそのまま積荷の適切な検査もせず高速に乗り、事故を起こしました。その
男は3日後、心臓麻痺で死にました。貴方に怪我を負わした男です。事故の現場から見て、貴
方は視力を失う前にその男の顔を見ることは出来ませんでした。その時貴方は、意識不明の
重態でした。そして今も、新しく報道される犯罪者が死んでいます。」
 それは第二のキラである可能性もあったが、25日に第二のキラがテレビ局に送りつけたビ
デオにキラと接触したような感じはなかった。Lはキラと第二のキラが接触したことを知らない
のだ。当のキラである月も知らないが。
 「確かにキラが能力を使うには顔と名前が必要だけど、疑われる要素はばっちりじゃないか。
だって事故のあったすぐ後だろ?凶悪殺人を犯しているわけでもないのにそんなに早く……」
 「月君、どうか落ち着いて聞いてください。」
 Lはそっと彼の肩に手を置いた。
 「貴方のお母さんと妹さんは、即死でした。」
 彼はそれを聞いた瞬間、微動だにしなかった。実際は数秒単位でも、数時間のように感じら
れる時間の流れは、月の裏返った声で終わった。
 「うそだ……」
 彼は起き上がろうとした。それを止めようと押さえつけるが、月は逆にその手にすがってき
た。
 「うそだよね?どうしてそんなこというんだ?父さんが言ったんだ。怪我しているけど今は逢え
ないって。そう言ったんだ。ねえ、父さんに逢わせて。」
 気丈な彼が、まるで助けを求めるように言う。
 「無理です。できないんです。」
 「どうしてだ?竜崎、嘘つくなよ。父さんに確かめるまでは僕は信じない!父さんに逢わせ
て!」
 「もう無理なんです!」
 強い口調で言ってしまい、月がびくりと体を震わせた。竜崎は一言一言丁寧に、
 「夜神局長は、亡くなられました。貴方が、意識を失っている時に。すでにご家族の葬儀は、
親戚の方々によって、終わりました。」
 「……………………ッ!!」
 声にならない悲鳴が、病室に木霊した。暴れる月を押さえつけると、突然電流が流れたよう
に、彼の体が引きつった。胸を押さえ、息を吸い続けている。
 ショックで過呼吸状態だとすぐにわかった。ナースコールで鎮静剤を持ってくるように叫んで
いる間、月はLの腕の中で蹲っていた。



 リュークは病室に誰もいなくなったことを確認すると、ぐったりとベットに体を横たえる月に声
をかけた。
 「おい、大丈夫か?」
 大丈夫なわけが無いのだが、それしか聞く言葉が思い浮かばない。返答は無かった。
 「起きてるか?寝てるのか?」
 「だいじょうぶだよ……」
 初めの答えが返ってきた。周りに他の人間がいないと判断したらしい。小声で言葉を返して
いく。
 「……リュークが心配するなんて珍しいじゃないか。」
 「俺は誰の味方をするわけでもないが、心配ぐらいはする。」
 「知ってたんだよね。母さんや父さんが死んだこと。」
 「…………すまん。」
 「ありがとう。気を使ってくれて。」
 彼は穏やかに微笑んだ。だが、すぐに顔を引き締めて。
 「おそらく、新しい犯罪者が死んでいるのは第二のキラだ。Lの奴がそう簡単に僕への疑いを
払拭するとは考えられない。おそらく、全力で第二のキラを捕まえようとするだろ。だから……」
 だがもう彼には、デスノートを使うことは出来ないのだ。そこで言葉が途切れてしまう。すると
リュークがそれを見かねて、
 「月、お前が寝てる間、別の死神がお前に逢いにきた。」
 「別の死神?第二のキラの?」
 「そうだ。お前に話があるといってたが……俺が追い返した。」
 月が眉を上げた。
 「どうして?」
 「勝手なことをしたってことはわかってる。だが、お前は話を聞ける状態じゃなかった。代わり
に俺が話を聞いた。第二のキラはミサという女の子で、青山でお前のことを見つけたそうだ。そ
してお前のことを調べているうちに、見つけた後すぐにお前が事故に合ったということを知っ
た。トラックの男を殺したのはその子だ。お前の容態を聞いて、彼女は文字通り、お前の目に
なりたいそうだ。だが、別の方法もある。」
 滅多にこのことに関して挟まないリュークが、突然提案してきた。
 「ノートの所持権を破棄すれば、お前は記憶を失う。」
 「……知ってるよ。それが?」
 「そうすれば、お前はもう危ないことに足を突っ込む必要もなくなる。キラの容疑が晴れたん
だろ?いいチャンスじゃないか。これを期に、キラなんかやめちまえ。」
 「僕を馬鹿にしてるのかい?そんなのリュークには関係ないじゃないか。」
 「俺は」
 リュークはかぶりを振る。この痛々しい青年に、これ以上精神的苦痛は味合わせたくなかっ
た。
 「俺は、お前が今にも切れる綱渡りをしているのをみて、もうこれ以上我慢できない。もちろ
ん、お前はそれでも関係ないというなら、続ければいい。ただ、俺は、そう想っているということ
だけ伝えておく。」
 月は、何度か口を開閉してからつぐんだ。何かいいた気に唇を噛んで、そしてぽつりと、
 「ずるいよ……」
 「すまん。」
 「ずるいよ……こんな時にそんなこというなんて……ずるいよ……」
 「すまん……」
 月の言葉には湿っ気があった。
 彼が答えを紡ぐ前に、リュークは先手を打った。
 「だが、このまま続けて、お前は捕まらずに続けられるのか?その女が裏切ったらどうする?
お前には普通の生活に戻るチャンスが出来たんだ。それをふいにしてどうする?
 少し休め。俺は外に出ている。だが傍にはいる。俺の案を考えておけ。」
 月のことだ。キラを続けるに決まっている。今この場で答えを出したら、もう後には戻れない。
時間をやって、考えさせたほうがいい。
 がらりっと病室の窓を開け、リュークは羽ばたいた。
 ただ後には、カーテンの音がばさばさと。
 ばさばさと、ばさばさと。




 退院したすぐ後だ。
 視力を失った青年を引き取ることに、親戚たちは難色を示した。
 誰だって、厄介ごとを引き受けたくはない。あちらのほうがいい、いや、そっちのほうがいいと
いうたらい回し話を、彼等は月の前で繰り広げた。月は初めて、自分の目が悪くなったことを
感謝した。醜いものを見なくてすむ。
 一人で暮らします。もともとそのつもりだった月は、凛とした口調でそういった。一瞬黙る親戚
たち。だがそれに異を唱えたのが、傍にいてくれたLだった。
 「私が引き取ります。」
 有無を言わせぬ口調だった。だが親戚たちが帰り、二人きりになったとき月はそれを拒否し
た。それをLは、
 「勘違いされては困ります。私はけして、貴方に哀れみをもったからそんなことをいったわけ
ではない。」
 「では何故?」
 Lは、前言ったこととは矛盾したことを言った。
 「キラの疑いは晴れた。しかしそれは周りの人間たちが思っていること。私は、まだ貴方を疑
っている。監視も含めて、貴方を引き取りたい。」
 そういうことか。月はため息をついた。
 承諾した月に、リュークは心底不思議そうに、
 「いいのか?そんなんで?」
 「監視したければすればいい。どうやら完全に疑いを晴らす必要があるみたいだ。そうしなき
ゃ、おちおち眠れもしないよ。」
 ミサと連絡を取り合うのはその後だ。そういう月に、リュークは、
 「俺が言った意見はやっぱり無視か。」
 それには、月は答えることが出来なかった。



 ノートは木の下に埋めた。それを手伝ってくれたのはリュークだった。
 「宝埋めゴッコか?一度やってみたかった。」
 白々しい言い訳に、月は苦笑した。
 その後、引き取られた家は、真新しい匂いがした。庭に連れて行ってもらうと、木々のざわめ
きと小鳥がさえずっていた。暖かかった。しばらくそこでぼんやりしていると、Lが手を引いて部
屋に連れて行ってくれた。困らないように、部屋は一階にしてくれた。Lは二階だった。階段とい
う一つの隔たりが、妙に寂しかった。しばらくしてそのことを告げると、それ以来、Lは二階にほ
とんど足を運ばなくなった。
 自分のために買ってくれた家具、自分のために買ってくれた食器、そして後から聞かされた
のだが、自分のために買ってくれた家。なにも返すものがないのに、Lはそれを続けた。ある
日、月が言った。
 「僕にどんな見返りを要求するの?」
 Lは寂しそうに返した。
 「何もいりません。貴方がいてくれるだけでいいんですよ。」
 自分のために言う言葉。自分のためにする優しさ。その宣言どおり、Lは何も望まなかった。
ただ、キラの事件について話を聞こうとすると、必ず困ったように黙り込むので、月は何も言わ
なくなった。昔の彼にしてみれば、考えられないことだが。
 精神はいつだって病んでいた。夢を見る。人の輪郭を捉えることすら出来ない自分の眼球
が、事故当時の母と粧裕の変わり果てた姿を映し出す夢だ。悲鳴を上げて飛び起きる。すると
Lか、彼が不在の時にはワタリがやってきて月を慰める。それが半年続いた。
 暗闇と悪夢の中、彼は重要なことを記憶の隅に追いやっていた。ミサのことだ。それは意図
的な忘却でもあった。彼女との連絡がまったくつかなかった。いや、むしろ、一度たりとも連絡
はこなかったし、出来なかった。それでもキラの事件は続いた。彼にはどうすることも出来なか
った。弱くなった自分を、月は責めた。
 そして、ある些細な事件がおきた。



 「母さん達の墓参りに行きたいんだ。」
 月の願いに、Lもワタリも口をそろえていった。今は行かないほうがいい。その理由を告げら
れることはなかった。何故?そう聞いても、気まずそうな沈黙が返ってくるだけだった。
 一度だけでいい。家族に挨拶に行きたいのだ。
 月は、墓の場所だけでも聞いた。ここからそれほど遠くないと聞かされ、彼は隙を見て、受話
器に手をかけた。ワタリが夕食の支度をしている最中、彼は家を飛び出した。家の前で待って
いたタクシーの運転手が、白杖をつく月を見て、驚いていた。
 寺に行く最中、運転手は様々なことを聞いた。付き人はいなくてもいいのか。白杖だけで平気
なのか。もしよければ、中までついていこうか。憐憫と哀れみが篭ったその言葉を、月は黙殺と
いう形で受け流した。タクシーから降りる際、運転手はこういった。
 「気をつけてね。」
 軽く頭を下げ、降りたはいいものの、そこから彼は困ってしまった。
 まるで、暗い地平線に立たされた感覚だった。何も考えずに家を飛び出した自分を叱咤し
た。歩けるといっても、頭の中に埋め込んだ地図の範囲内だけであって、まったく未知の地に
立った自分は、どうしようもなく小さいものに感じられた。
 「俺が案内しよう。」
 リュークが言った。声だけを頼りに、月は死神の後をついていった。上から墓石を探すので、
ちょっと待っていてほしい。リュークに言われ、また月は闇の中に取り残された。それでも我慢
した。
 「大丈夫?」
 白杖を持ち、ただ立っている自分を見かねて話しかけてきた男がいた。はい、大丈夫ですか
ら。会釈を交えてそう答えると、男は構わず言った。
 「君、夜神月君だよね?」
 驚いた。このような見知らぬ地で、自分の名を知っている人間がいることに。目まぐるしく脳
内で、知り合いの名前を思い出すが、次の言葉で男の正体がわかった。
 「実は、○○雑誌の記者なんだけど。」
 彼が意識を失っている間、世間ではそのことが持ちきりだった。母と妹を亡くし、父である警
察局長がキラに殺された疑いがあるのだ。盲目となり、『友人』に引き取られた不幸な青年の
顔写真は、雑誌で無断掲載された。世間は儚げな青年像を勝手に想像し、そしてその物語の
続きを野次馬の目で捜し求めた。降りかかった不幸に憐れみと好奇心の目を向け、彼の行方
を草の根捜すように、取材記者たちは躍起になった。
 Lとワタリの言葉、運転手の驚きよう、『気をつけてね。』という別れ言葉。その意味を知った
月には、やはりどうすることも出来なかった。取材記者の男はがっちりと月の腕を掴み、せめ
て墓参りをしている場面でいいからうつさせてくれと請求された。その間にも、シャッター音が何
度か聞こえた。仲間がいるらしい。
 逃げ出したかった。世の中の冷たい手に掴まれて、立つことすら困難になってきた。それでも
四方から腕が伸び、自分をどこかに連れて行こうとする。手が怖かった。実際は数人しかいな
いのに、何十人もの人間に体を捕まれるような感覚だった。彼はその場でしゃがみこんでしま
った。
 気分が悪いのか、記者達は不思議そうに、しかしどこか期待するように口をそろえた。なら
ば、うちの事務所で休まないか、車をだしてあげる、ほら立って立って。掴まれる手の力が強ま
った。
 その時、明らかに異形の手が、月の掌に触れた。鍵爪の、人の手ではない手。月はその手
が牽く方向に走った。白杖が転がった。後ろで男達が喚いた。
 どこまでその手に牽かれたれただろう。しばらくすると、日の光が素肌に当たらない場所に来
た。息を切らし、彼は震えた。人間の怖さに慄いた。ずっとここでしゃがみこんでいたかった。
 「月、痛いところがあるのか?」
 引っ張ってきてくれたリュークが尋ねた。月は頷く。
 「怪我をしたのか?」
 首を振る。
 「胸が痛い……。」
 正直に話した。緊張で張り詰めた筋肉と、重く圧し掛かる胸の痛みが、月をただただ弱くさせ
た。月は言った。
 「いやだ……。」
 うずくまり、顔を膝に押し付けた。
 「リュークと離れたくないよ……」
 身勝手なその言葉に、しかし死神は黙っていた。最近ずっと頭を過ぎっていたノート所持権破
棄。今それが、完全に消えうせた。
 「リュークがいなくなったら……僕はどうすればいいの?」
 人を死に至らしめる神は、月の傍で寄り添いながらこう宣言する。
 「いなくならない。」
 もう一度、死神は言った。
 「いなくならないよ。」
 その後、運転手が心配になって自宅にいたワタリに連絡を取ってくれていたらしい。話を聞い
て探してきたLが、震える彼を見つけたのは、日が落ちた頃だった。



 その1件以来、月は完全な人間不信に陥った。前々から、そういう節はあったものの、生活
上不便なため、それを押さえていたのだ。だが、留め金が外れた今、彼は心の暗い慟哭の中
で、ひっそりと震えた。ベットから起きても、鬱な感覚は常にあり、それを止めるのは心を休め
る薬だけだった。だが、それを咎める者は誰もいなかった。Lはずっと月の傍にいた。そしてあ
る日唐突に、月を抱いた。本当に、唐突だった。
 優しかった。優しくて痛くなるぐらい、Lの行為は優しかった。涙が出た。Lは言った。
 愛しているんです。
 その頃から、月の心の病状が、少しずつ良くなってきた。死神は、手放しでは喜べないもの
の、よかったなと言った。月は頷いた。




 暗闇の中で、彼は音に敏感になった。
 夜のことだ。点字を指でなぞっていると、ばさばさと音がした。折り重なった羽を力いっぱい動
かす音だ。それが何重にも重なって、音楽のようにも聞こえた。彼は窓を開けた。
 風が、彼の皮膚を撫でた。一年前と、同じ撫で方だった。
 Lが好きなのは、キラだと思っていた。だがそれも、病んでいた心を治すのに神経を使い、考
えなくなっていた。キラの犯行は、まだ続いていた。
 会ったこともない少女に、彼は感謝する。そして贖罪をしたい。
 少女の命が尽きたとき、今度は自分がキラとして追われる番なのか。
 彼は暗闇の中で目を閉じる。
 ばさばさと、鳥達が奏でる音楽が。
 ばさばさと、ばさばさと。



小鳥は天高く舞い上がり 下
 




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